高知の祭り目次
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白王八幡宮境内
切り取られていく鳥形山
愛媛県との県境近く、嘗てはその山容が土佐湾から美しく見えたという鳥形山の西面。 四国山地の真っ只中に、都という集落があります。 (鳥形山は石灰石の山で、1971年からずうっと採掘され続けており、今では掘り取られて、頂上部分は100メートル以上もなくなっています。) ここに800年も続けられている「都おどり」があると聞き、行ってきました。
悲運の帝といわれる安徳天皇にまつわる伝説は全国21ヵ所におよび、御陵参考地は10ヵ所以上とか。
白王八幡宮
境内
壇ノ浦の戦いに敗れ、身代わりの一行が下関に向かい、幼い「安徳帝」は瀬戸内の海の藻屑と消えたことになっています。 が、実は、帝本人は母親の建礼門院とも別れ、侍従らとともに、阿波の国山城城主の田中成良の道案内で、四国の尾根伝いに、源氏の追討の目をくらますために、各地でいろんな分離行動をとりながら、厳しい冬場の山岳地を、阿波路〜中津路〜東祖谷〜吉野川〜仁淀川〜久万へと進んでいきました。
当初の筑前へ行く予定は、新たな情報で無理と断念、土佐一番の高山・鳥形山の八合目を潜幸地とし、質素な御殿を築き、隠れ住まいを始めたのです。 「この山中も住めば都なり」 とのお言葉から、この地を都と名づけたといわれています。
御陵塚へ
参拝
というように、この「都おどり」の伝承も安徳帝と平家の伝説のうちのひとつですが、建久7年(1196年)丙辰3月の日付と、山内重則の銘のある「拝殿記証」が現存するということで、かなり現実味を帯びてくるではありませんか。
山内重則とは、京都山城の国、金子城主「平重詮」(安徳帝の侍従。平清盛の子・重衝の子で清盛の孫にあたる)が、源氏の追っ手から逃れるために「中山重則」と変名、安徳帝を守ってきたが、崩御後、山内と称し、この地に留まって御陵のお守りをすることになり、山内神助と改名したという。
二股の撥
深山にゆったりと
そして山内神助を初代とし(1601年山内一豊の土佐入国により、14代目に西森と改姓)現在45代目の西森家当主が都に定住し、御陵をお守りしているという。 安徳帝は、生まれながらに、源氏・平家の確執の中で数奇な運命を生きることを余儀なくされ、建久6年(1195年)8月22日、18歳で崩御されたのです。
都おどりは、傷心の幼い帝を慰めるために始められたものですが、現在は、8月22日の命日に、皇陵塚と白王八幡宮の前庭で、末裔の人々によって、古式ゆかしく舞われます。 西森家家紋入りの白い着物に黒の袴をつけ、白足袋に下駄を履き、男は太鼓を抱え、采と二股になった撥、女は両手に家紋入りの白い扇子を持って、輪になって淡々と踊ります。
時が流れます
西森家
時代の流れで、山深い都の地から街へ下りる人が増え、今では定住者は激減、踊り手が少なくなり、継承への危機感があるようですが、縁故者や町役場の熱意は充分のようです。 静かにおどりを見ていると、舞人達の故郷・都を思う気持ちが伝わってきて胸を打つものがあります。 単調な唄と踊りにひきこまれて、伝説の時代へタイムスリップしたような気持ちになったものでした。
杉の大木の中にある白王八幡宮(天皇と知られないように皇の字を二つに分けて白王としたとか)は安徳帝建立で、現在は山内神助を祀る都神社と焼野権現も合祀されています。 焼野権現はガンなど重病にも霊験あらたかと参拝者が多いということです。
玄関の家紋
焼野権現様への祈願でしょうか・・
文章は伝説に基づくものですので、念のために。 安徳帝は、都の前は、椿山(仁淀川町・旧池川町)に滞在されていたと言われています。 関連する記事 椿山の虫送り 麗