遍路紀行目次 HOME
前ページ 次ページ
西林寺の白萩
下り道
秋霖の中休みでしょうか、前日のかなりきつい風の後お天気が回復し、遍路日和となりました。 10時15分、三坂峠のバス停から国道を離れ、右手(北方向)の遍路道へ歩き始めました。 遍路道へ入って少し上ったあとは、どんどん木立の中の坂道を下っていきます。
トチバニンジンの実
ギンナン
ミズヒキソウ
この道は、明治25年、国道33号線が開通するまでは「久万街道」と呼ばれる主要道で、高知への最大の難所だったとか。 当時の往来については、三坂馬子唄に「♪むごいもんぞや久万山馬子はヨ〜 三坂夜出て夜もどるヨ〜♪」と唄われており、高知への往復に一昼夜かかったそうです。
色づき始めた棚田
遍路宿・坂本屋
1時間ほど下ったところには「坂本屋」という大正初期に建てられたという遍路宿が保存されており、すぐ近くには「遍路墓」の墓標もありました。
遍路墓標
網掛石の前で休憩
さらに10分ほど。三坂峠から4.5キロで、「網掛石大師堂」です。 大きな岩に網の目のような文様がついています。 お大師様がこの岩を網に入れてオオクで担いだというのですから相当に太い話です。 ここで10分ほど休憩です。
色づき始めた柿
クコ
ヒガンバナ
浄瑠璃寺入り口
人里の色づき始めた柿の実やヒガンバナ、可愛いクコの花などを見ていくうちに、46番浄瑠璃寺の門前まで来ました。 峠から約8キロ、2時間10分です。 門前の「長珍屋」で昼食休憩。
浄瑠璃寺大師堂
今生きていること有難し
午後は13時から。 浄瑠璃寺は長珍屋からすぐです。 築220年の古めかしい本堂の内格子には、千羽鶴や人形、よだれ掛けなどたくさんの奉納物が括り付けられ、現世を生きてここまできた人々のさまざまな業を見るようで胸に迫ってくるものがありました。
お参りを済ませて、左手の脇門から出ると、1キロ足らずで47番八坂寺です。 こじんまりした山門の天井には仏陀自身が出迎えに来てくれている画が描かれています。 この寺の創建(西暦701年)に際し、8ヶ所の道を切り開いたとかで、それにちなんで八坂寺と名づけられたそうです。
八坂寺山門
山門の天井絵
八坂寺本堂
ここ八坂寺は四国遍路の元祖・衛門三郎の菩提寺です。(遍路紀行その5をご参照ください) 14時。 次へ。 あちこちで稲の収穫をしている時期とあって、辺りには新藁の匂いが漂っています。
新藁の匂いに包まれて20分ほど歩くと衛門三郎の8人の子供達の立派な墓所がありました。 欲の深い三郎が、お大師様の托鉢に腹を立てて鉢を割ってから、自分の子供達全員を次々と失い、ようやくわが身の非を悔い改め、資産の全てを投げ打って遍路に出たといわれますが、それにしても、それまでの衛門三郎がいかに資産家であったかが分かる墓所です。
八坂寺大師堂
米の収穫
そこから30分いくと「札始(ふだはじめ)大師堂」があります。 ここは、衛門三郎の家へ托鉢に出かけた際の、お大師様が寝泊りしたところです。 ここで休憩と勤行をし、次へ進んでいくと、重信(しげのぶ)川に出ました。
重信川を渡り、高速道の下をくぐり、民家のそばを歩いたのですが、道沿いの水路の水が見事なほどきれいなのです。 生活排水も出されているでしょうに、澄み切った水の中にはたくさんの魚影が見えます。 近くにきれいな湧き水(「杖の淵」西林寺から200メートル)があり「ていれぎの里」と呼ばれるところだからでしょうか。(遍路紀行その44をご参照ください)
衛門三郎の8人の子の墓所
札始大師堂
重信川を渡る
八坂寺から5,6キロ。1時間20分で48番西林寺へ着きました。 山門の屋根は葺き替え工事中でした。 門前には「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」の子規の句碑があります。
本堂前の白萩が咲いている中で、お勤めをしたあと、弘法大師が見いだしたと言われる名湯「たかのこ温泉」まで2,5キロを歩いて、約16キロの今日の歩きは終了です。 次回は3週間後の10月6日、49番浄土寺〜50番繁多寺〜51番石手寺〜道後温泉までです。 娘遍路
西林寺本堂
白萩
ツルボ
シュウメイギク